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岩谷先生 [生活]

岩谷先生と最初に出会ったのは、高校を卒業してすぐ、東京コンセルヴァトリーという演劇塾に入った時でした。塾長だった玉三郎先生と岩谷先生が非常に親しい間柄だったので、コンセルヴァトリーに入ってすぐに紹介されたのです。それ以後、数名しかいなかった私たち生徒を気にかけてくださいました…舞台に足を運んでくださったり、テレビに出演した際には観てくださったり。

当時も勿論、岩谷先生が高名な作詞家、訳詞家であることは存じ上げていましたが、その時の私にとってはコンセルヴァトリーの関係者、玉三郎先生と親しい方という認識が強かったように思います。直接指導をしてくださる諸先生方の親のような厳しい眼差しとは異なり、優しい目で見守ってくださる祖母のような存在だったのです。

二年が経ってコンセルヴァトリーを卒業し、生徒たちは自分の道を歩み始めました。歌舞伎の道を選んだ男の子、劇団に入った女の子、それぞれが自分の行く先を模索する中で、事務所や劇団に所属することを躊躇していた私に、歌うのが好きだったら『レ・ミゼラブル』の公開オーディションがある、と最初に教えてくださったのは岩谷先生でした。

無事オーディションに受かり、初めて岩谷先生と仕事で係わることになります。
初めてのミュージカル、初対面の人に囲まれて、毎日凍ったように緊張していた心には、ある日ふと稽古場に現れた岩谷先生の柔らかい笑顔が、氷を溶かす日向のように暖かく感じられました。休憩時間に「麻緒子さんのことを描いていたのよ。」と手渡された一枚のスケッチ。アンサンブルの中でも最年少、『レ・ミゼラブル』を初演から演じ続けている方達や『ミス・サイゴン』の一年半のロングランを経験してきた人達の中で、自信の欠片も持ちあわせていなかった私に、「私は観ているわよ」と伝えてくださったように感じました。
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それから三年後の『レ・ミゼラブル』を経て私が結婚すると、繋がりは更に強まりました。岩谷先生と夫の友情が大きなものだったからです。言葉の壁などものともせず…
結婚、出産をいつも心から喜んでくださった岩谷先生、日本に帰った時には夫と二人で会いに行くようにしていました。骨折で入院なさっていた病院に子供達を連れて訪ねて行ったこともあります。
最後にお会いした時の岩谷先生の心は幼少期に戻りがちで、夫の問いかけに答えるように、幼い頃の家族のことを色々と話してくださいました。それがいつの間にか越路吹雪さんの話へと移っていって、岩谷先生の心に占める越路さんの存在の大きさを改めて感じたものです。

素晴らしい作詞家であることも知っていた、実際にその美しい日本語を堪能しながら歌っていた、けれども作詞家としての岩谷先生を本当に意識したのは、私自身が訳詞を手掛け始めた時だと思います。直接お話を聞くことは出来なかったものの、ご自分のコンサートのために自ら訳詞を手掛けたばかりだった玉三郎先生から、岩谷先生が何に気を付けていたかという話を伺いました。玉三郎先生は一時期、ほぼ毎日のように岩谷先生と劇場に通っていらしたほどの仲です。その我が師匠を通して頂いた訳詞のエッセンスは、今後も大切にしてゆこうと思っています。

贈り物をするのが大好きだった岩谷先生。
最初に頂いたのは、出会ったばかりの18才の時で、ミニーマウスが大きく描かれた真っ赤なバスタオルでした。コンセルヴァトリーの授業の合間に、その大きなタオルにくるまってウトウトしていたのを思い出します。
その後、折に触れて頂いた数々の物の中には、結婚が長続きするようにと下さった小さな御守りもあって…御守り、効いているようです!

長い人生を生き、多くの方と交流があった岩谷先生、私の存在は決して大きなものではなかったと思いますが、私の中での岩谷先生は、あの穏やかな微笑みとともに、いつまでも暖かく心に残る大きな存在であり続けるでしょう。

岩谷先生、ありがとうございます。
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94年『レミ』、97年『レミ』(石井一孝さんと)、2010年(夫と)

アキラ [生活]

私の妹は(も)イギリス人と結婚しています。だから子供はハーフ、聡明な男の子で名前は『アキラ』。
私の子供達と比べて色素も薄く、日本にいるとかなり西洋人風に見えるようです。
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妹のご主人が年に数回仕事をする金沢でのこと。お寿司屋さんに連れて行き、親子三人でカウンター席に座っていました。同じカウンター席の少し離れた所では、名前は分からないけれどテレビで見覚えのある顔の男性が、数名でワイワイ食べている…お互いがお互いの食事を楽しんでいる状態ですね。
で、その食事も終わりかけるころに、鮨の神のような大将が「坊ちゃんのお名前は何でしたっけ?」と妹に聞きました。彼女が「アキラです。」と答えると、いきなり隣から
え〜〜〜〜〜〜ッ、その顔でアキラか〜〜〜〜〜〜〜〜〜?!
という叫び声が。その見たことがある顔の人が叫んだのです。妹ビックリ。
「その顔だったら、スティーヴとかハリーとかだろう!」って。

そのアキラくんがもっと小さかった頃の話。歩けるようになって、興味がある所には何処でも行きたがり、母親が必死に追いかける頃のことです。
実家の数軒隣の家が空き家になり、次の借り主が現れるまでの間、テレビや映画等の撮影場所として貸し出されていました。ある日、その家の門が開いていたので、散歩帰りのアキラくんがササッと入って行ってしまいました。妹は慌てて追いかけます。すると、そこには休憩中らしき俳優さんが立っていて(ここでも妹、名前は思い出せず…海外暮らしが長くて記憶を呼び戻せません)、アキラを見てニコニコと話しかけてきました。「ホワッチュアネーム?」とか何とか英語で。妹は、人様の家ですし、撮影現場ですし、必死になって「アキラ、やめなさい。」「アキラ、アーキーラー!」「アキラ、いい加減にしなさい。」と言い聞かせますが、言うことを聞かないので次第に大声に。その間もその俳優さんはアキラに英語で話しかけていて…妹、最後には引きずるように子供を連れ戻し、家に帰ってきました。
それから暫く経って、妹がその俳優さんの名前を思い出しました。「ほら、あのスター何とかって…」「え?N野…」「アキラ〜〜〜っ!!!
子供の名前は西洋人の名前だと思っていただろうし、スターN野さん、きっと自分が変質者扱いされて叱られたと思ったに違いない…妹、笑いながら落ち込んでいました。

手書き [生活]

火事場から何か一つ持ち出せるとしたら…

この箱でしょうか。
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今まで受け取った手紙が入っています。イギリスへ引っ越す際に処分してしまったものも沢山あるのですが(少し後悔…)、小学生の頃から現在に至るまでの、主に封書が詰め込まれています。

Eメールの時代に入ってからは、この箱の中身が増えることはなくなりました。子供の頃に心を弾ませて向かった文房具屋のレターセットコーナーも、年々小さくなっていく気がします。
とは言いつつ、今では私もメールで済ませてしまうことが殆ど。地球上の何処にいても、インターネットに繋がりさえすれば時間差も無く届くEメールは、画期的な発明であることは確かです。

でも、昨日この箱を開けてみて、つくづく感じました。手書きっていいなぁ。
表の宛名書きを見ただけで、誰からの手紙か分かるという感覚。

字は体を表す。
こういう字を書く人はこういう人、という絶対的な物差しがあるとは思いませんが、字が性格や思想といった、自分が考えるその人を思い出させてくれるのは確かです。
私自身、こんな字が書きたいという理想があって、その理想に近づく努力をした覚えがあります。きっとその過程で性格や思想が入り込むのでしょう。

小学校時代の塾で出会い、学校は一緒になったことが無いけれど、それ故に文通を続けていた友人からの手紙。中学・高校とずっと親友だった子からの手紙(彼女とは部活も一緒、交換日記までしていたのに、手紙も大量!)。この二人からの手紙は束になっています。その他にも、大切な人たちから届いた手紙の数々。ゆっくり読み直したくなりました。

我が宝箱の中には、封書以外の手紙も幾つか入っていました。授業中に廻って来たノートの切れ端、受験会場で読めと姉から渡された、御守り形に折ってある手紙。見るだけで微笑んでしまいます。

最近、長年愛用していた便箋の最後の一枚を使い切りました。次の便箋を買いに行くのが楽しみ…子供の時と何ら変わらず、浮き浮きします。

CHARLIE AND THE CHOCOLATE FACTORY [観劇]

昨日は息子の15才の誕生日でした。15才! 信じられません。小さくて華奢、いつも妹よりも小さかった彼も、とうとう私の背を越しました。日に日に大きくなっています。

誕生日プレゼントは前倒しで夏休みにあげていましたが(父親に似て鳥好きの息子が、自然の中を旅するのに双眼鏡を欲しがったので)、何もなかったら淋しいと、皆でミュージカルを観に行きました。『チャーリーとチョコレート工場』。
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大成功!ここには書けませんが、想像力溢れる場面が次々と舞台上に繰り広げられた上に、最後には、あのイメージを観られただけでも来た甲斐があった、というような素晴らしいシーンが…
子供達も歓声をあげ、笑い、そして感嘆の溜め息を漏らしていました。
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演出はサム・メンデス。『アメリカンビューティー』でアカデミー賞を受賞、最近では『007/スカイフォール』を監督したこともあって、映画界で名を馳せていますが、もともとイギリス演劇界ではかなり有名だった方。子供達が同じ学校なので、たまにお目にかかりますが、大変気さくな感じの良い方です。運動会ではリレーで走る我が娘を大声で応援してくださって、それが娘の密かな自慢。

二年ほど前のこと。子供をどこへ通わせようか思案中だったサムが学校見学に訪れた際、構内を案内したのが我が息子でした。案内の途中で自分のアート作品があったので、「これが僕の作品です。」と息子が言うと、その作品に付けられた名札に反応したサムが、「もしかして君はジョン・ケアードの息子か?(ケアードは珍しい名前なのです)」と聞いたそうです。サムと夫は旧知の間柄なので友達として聞いただけだったのに、馬鹿な息子は「ふふ、僕の父親って有名人。」と勝手に思い込み、私たちに一切その話はしませんでした。
後日、劇場の客席で偶然に会ったサムが興奮しながらその邂逅について話してくれて、そんなことがあったのだと知った私。帰ってから息子に、「いい? あなたの父親が有名人だからではなくて、知人だったからなのよ。そして彼こそが今をときめくサム・メンデスなのよ!」と言い聞かせました。

昨年、記録を塗り替えるヒットとなった『スカイフォール』を観ながら息子が一言漏らしました。「僕が学校を案内したんだよなぁ。」そうよ、気付いていなかったけれどね。

訪問者 [生活]

イギリスでは個人の名前の入った表札を出すことはありません。玄関の扉に番号(番地)が付いているのみ。日本とは違って全ての通りに名前が付いていて、通りの名前と番地の組み合わせで家の所在地を示す仕組みになっているのです。
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この番地の他に、名前の付いている家があります。我が家にも名前が付いているのですが、いつからそう呼ばれ出したのか、何故なのかは分かっていません。名前の一部に『CHURCH』が入っているものの、調べてみても教会と関係があったことは無いようなので、不思議と言えば不思議な名前です。

この住所の仕組みと家の名前のせいで、我が家には珍客が訪れます。

あまりにも分かり易い仕組みだからか、イギリスでは初めての訪問者に対しても地図を書いたりはせず、普通はただ住所を知らせるだけです。今はスマートフォンもありますし、さらに簡単。けれども住所をいい加減に覚えたり、南や北(South や North)といった表記を落としたりしてしまうと、間違った家の呼び鈴を鳴らすことになってしまいます。表札がありませんから。

近くにある通り(名前が似ている)の我が家と同じ番地には、牧師さんが住んでいらっしゃいます。間違って我が家の通りに来てしまった人が、同じ番地、しかも『CHURCH』の入った名前の家を見つけたら、何の疑いもなく目的地だと思ってしまうのは仕方がないこと。「牧師さんはおられるか?」と訪ねてくる人が後を絶ちません。ある晩など、次から次へと聖職者の格好をした人達が呼び鈴を鳴らして「ミーティングに来た」と言うので、三人目くらいで私、噴き出しました。聖職者を相手に不謹慎だとは思いつつ…

もう一つ、住所が酷似しているせいで間違われる家があります。お互いの郵便物や荷物が間違って配達されるなんてことは日常茶飯事。
ある晩のこと。夕食も片付けも終えたところに呼び鈴が鳴りました。「カレーを届けに来ました!」って。「え?頼んでませんけれど…」でも、すぐにピンときた私は、「多分、××のところだと思うわよ。」と住所酷似の家のことを教えてあげました。それなのに彼は「教えられた住所はここなんだ。」と言い張ります。実際に彼の手にする紙きれには我が家の住所が…「電話したら?確認出来るでしょう?」と言うと、「電話番号は持っているけれど、携帯が無い。」宅配をするのに携帯を持っていない?!と驚きましたが、レストランまで帰らせるわけにも行かないので、「私がするから番号を見せて。」と注文者に自ら電話をかけました。案の定、電話に出たのは住所酷似の家の方で、カレーを待ちわびているとのこと。「君は何て親切なんだ!」と必要以上に感動している宅配人に、「いえいえ、カレーが冷めるのが心配だからです。」とは言いませんでしたが、目的地を教えて送り出しました。
15分後。再び呼び鈴が。扉を開けると同じ宅配人が立っていました。あら〜御礼か何かかしら、異常なほどに感動していたからなあ、と思うと、「家が見つからない…」「え〜っっっっっ!?」再び、より詳しく道順を教え(ただ真っ直ぐ進むだけなのですけれど)、扉を閉めた私の頭に浮かんだのは、注文者が口にすることになる冷めきったカレーでした。

バトラー [生活]

イギリスにはまだ階級が残っています。特権は殆ど無いとしても、公爵、侯爵、男爵、といった爵位が存在していて、その爵位付きで相続される土地や家というものもあります。(未だに男しか継げないという古臭さ。でも男女にかかわらず長子が王位を継ぐと決まった今では、これも変わってゆくのかもしれません。)ただ、相続税や土地・建物の維持費に音を上げて、売り払ってしまったり、ナショナルトラストというトラストに家を献上するかわりに一部に住まわせてもらったり、観光客を受け入れて入場料で維持費を賄ったり、といった選択をせざるを得ない人達が多いのも事実。私たちが貴族と聞いて想像する生活をしている方は、意外と少ないかもしれません。

では今、どういう人達が貴族的な生活をしているかと言えば、ビジネスを持っている貴族、ロックスター、映画俳優やモデル、成功した起業家といった人々。マナーハウスと呼ばれる広大な土地付きの古い家(本物の貴族が手放さざるを得なかった家)を購入して、住んでいます。

家を買ったら、次に?必要なのはバトラーです。昔のバトラーは、何十人といる使用人を統括する立場でした。そんな数の使用人を雇うことの出来ない現代においては、少し違った職種(何でもするところが)になりつつありますが、それでもバトラーを持つことが一種のステイタスであることには変わりありません。

しかし年々バトラーの数は減る一方。きちんとした訓練を受け、敷地内に住み込みで、朝から晩まで古い規則にのっとったサービスを提供する、という仕事を若者が敬遠するのは想像に難くありません。ですから、良いバトラーを見つけるのは至難の業なのです。

随分と前の話になりますが、それまでのバトラーが辞めた後で、その後任を見つけるのが如何に大変だったかという話を、知り合い(貴族の方です)から聞いたことがあります。
まずは『いない』。やっと見つけて面接しても『探しているような人ではない』。そしてやっと良い人が見つかった、とお試し期間を設けようとしたら…警察がやって来て、「彼は指名手配中の詐欺師です。金持ちの家に入り込んで、しばらくすると金目の物を盗んで姿をくらますのです」と告げられたとか。この方は逮捕を助けるために、お試し期間の初日に容疑者を駅まで迎えに行き、そこで張り込んでいた私服警官が彼を捕えた瞬間に、「君たち、私のバトラーに一体何をするのかね?」という芝居までさせられたそうです。大変ですね…
結局その後で良い人が見つかったのですが、かなり時間を要したとおっしゃっていました。

そして見つかったバトラーが後々、我が娘の命の恩人?となるMさん。

その方達の家に招待された時のこと。夏だったので、水着を持って来てちょうだい、と言われ、子供達も大喜び。美しい屋外プールで遊び始めたものの、我が子達、泳げませんからね、いきなり深くなる場所でアップアップ…末娘(当時6才)が、え?溺れている??
招待してくださったご夫婦と夫は離れた木の下に座っていましたが、プールサイドで見守っていた私と、私たちに紅茶を運ぼうとしてたまたま通りかかったバトラーMが、異変に気付きました。でも、私が溺れているか否かを確信するよりも先に、Mは「マダム、彼女は溺れていますね?」と一言つぶやくと、紅茶セットを乗せたお盆を地面に置き、飛び込んでいた…お仕着せのまま…革靴のまま…

そして素早く末娘をプールから引き上げたMは、すぐにお盆を取り上げて夫たちの所へ行き、全身から水を滴らせながら「紅茶はいかがでしょうか?」と仕事を再開。皆に紅茶を注ぎ終えた後で、「ご主人様、もしもさしつかえなければ、着替えに戻っても宜しいでしょうか?」と下がっていきました。そのあまりに何事も無かったかのような振る舞いが、見事で不自然で可笑しくて…感謝は勿論のことですが、笑顔無くしては思い出せない出来事となりました。

帰宅後、娘と一緒にお礼の手紙を書き、お会いする度に感謝を伝えています。

これは、ここ数年イギリスやアメリカで人気を誇るTVドラマ『ダウントン・アビー』に出てくる使用人たちです。役職によって服装が違うのがお分かりになると思いますが、真ん中の年配の男性がバトラー。まあとにかく、このような格好のままプールに飛び込んだ、とお考えください
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このドラマで描かれている時代のイギリスでは、主人側か使用人側かで人生に天と地ほどの差がありました。でも私が観察した限りでは、現代の主人と使用人の関係は人間として対等である気がします。でないと辞められてしまいますから…後任を見つけるのは難しいですから…もしかしたら主人側の方がより気を遣っているのかもしれません。

CHIMERICA [観劇]

ハロルド・ピンター劇場で『CHIMERICA(チメリカ)』を観ました。もともとはアルメイダ劇場で始まった作品ですが、好評(殆ど全ての新聞が5スター、こんなことは珍しいです)だったために、ウェストエンドに移ってきたのです。今週いっぱいで公演が終わることもあって劇場は満員、立ち見もSold Outでした。
89年6月4日の天安門事件で撮られた有名な写真(タンクマン)を元に作られたストーリーフィクションではありますが、真実を訴えかけてくる作品でした。早目にチケットを取っておいてよかった…

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ノスタルジー [生活]

前回の投稿は、春なのに寒いロンドンでした。今回は秋なのに寒い寒いロンドンです。日本は30度を超える日がまだあるとか…別世界ですね。

冬のように寒いとは言っても、街路樹が黄色く色づいていたり、煉瓦の壁につたう葉が紅く染まっているのを見ると、秋を感じずにはいられません。日がだんだんと短くなる毎日に、気持ちが昔を振り返りがち…秋に繋がる何らかの思いが目覚めるのか、身体とともに心も内に籠りがちになるのか。何にせよ、形にはならない抽象的なもの。

土曜日の朝は、末娘の水泳レッスンがあります。
物心がつく前から毎週末のように父親にプールに連れて行かれ、中学・高校時代は水泳部に入って水の中で暮らしていた私。そんな私の三人の子供達は泳げません。プールのある学校が殆ど無く、親が水泳教室に通わせないかぎり子供は泳げない、それがイギリスの事情です。そして私は、通わせなかった親です。

けれど! それではいけないと熱心に勧めた結果、末娘が応えてくれて…週に二回ほど泳いでいます。学校の部活は、泳げる人達に囲まれて辛い様子ですが(初日に2チームでリレーをさせられ、彼女のせいでチームがボロ負け、泣きながら帰ってきました)、土曜日はスイミングクラブで能力別のレッスン。かなり年下の子供達と一緒に4種目を丁寧に教えてもらっていて、今日は皆の見本になったとニコニコでした。

部活は覗きませんが、送迎がてら見学している土曜日のレッスン。着替えさせて、プールの上に設けられた階段状の座席につくと、まだプールでは前の時間帯の上級クラスの子供達が懸命に泳いでいる…

昔への抽象的な思いが一気に形になる瞬間。必死で泳いで、止まって時計の秒針を見つめ、またスタートする。ひたすら泳ぎ続ける時間。自分の吐く息しか聞こえない世界。息継ぎをする度に耳に飛び込んでくる聞き取れない声や音。

高校は屋外プールでしたが、10月のこの時期まで泳いでいました。30度に届く日などなくて…ガタガタ震えながら、歯をガチガチ鳴らしながら。

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